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2006年03月27日(月) ◇ 尊厳死 (考えたこと)

 富山県射水(いみず)市の射水市民病院で、患者7人が人工呼吸器を外され死亡したとされる問題が報道されている。
 報道では、人工呼吸器を外すことに、患者の家族の同意があったかどうかについて焦点を当てている。
 
 今日のブログでは、延命医療、または、人工呼吸器というものについて考えてみたい。
 なお、私は、医者でも、医療関係者でもないので、間違っていることがあれば、コメントなりで指摘してもらいたい。
 
 医者の見立てや経験から、人工呼吸器をつけていれば、患者の体が弱っていき、数年間生き続けて、全身に衰弱が至り、死を迎えるという場合があると思う。
 
 まず、その患者が入院先に運ばれた時は、人工呼吸器がなくても、生きていて、人工呼吸器を外すことと、患者の死とは結びつかないと思う。
 それが、時間の経過を経て、人工呼吸器をつけて、容態を見ているうちに、回復して人工呼吸器がない生活に戻れる場合と、人工呼吸器がない生活に戻れなくなる場合が、生じるのだと思う。

 回復する力があって、健康になりましたねと、退院できる場合と、意識が戻るか戻らないかくらいで、人工呼吸器がないともう、24時間命が維持できなくなる場合である。

 後者のような人工呼吸器をつけたまま24時間過ごす状態が数ヶ月続いた場合、患者がさらに弱っていった場合、患者の家族や、医者も、人工呼吸器を外せば、それが、死と結びつくという事を、肌で理解するだろう。そうなれば、人工呼吸器を外せないということを実感するだろう。

 ただ、この間には、隘路がある。

 患者が人工呼吸器をつけて間もなく、まだ、患者の家族が人工呼吸器がなければ、患者が生きられないと、はっきり認識してない頃に、人工呼吸器を患者の体に負担がかかるのでつけられないので、外しますが、全ての治療について同意してくれますか?と聞いて、同意を取るということがある。
 そして、人工呼吸器を外す。患者は、近いうちに死亡する。
 
 要するに、患者の家族の意識で、人工呼吸器と患者の命の維持が強く結びつく前に、医者の判断で、<全ての治療について=人工呼吸器を外すかどうか> について、家族から同意をとるということである。
 
 実際、この隘路は、常套手段になっているのではないかと思う。これが封じられると、家族は、人工呼吸器で延命される親族と何年か付き合う事を選択することになるのである。
 
 多くの医者が、この隘路を常用しているから、延命治療についての議論が深まらないのではないかと思う。
 医者自身は、自分は、十分な治療をしているので、犯罪に問われるようなことはないですよ。というポーズをとることと、現実に毎日向き合う選択で用いる、この隘路の利用は、両立するのである。

 東海大学安楽死事件 では、平成7年に横浜地裁が、安楽死の要件を示している。
(1) 患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛がある。
(2) 死が避けられず、死期が迫っている。
(3) 肉体的苦痛を除去・緩和する方法を尽くし、他に代替手段がない。
(4) 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある。
 
 というが、これは、どういうことなんだろうか。
 要するに、延命処置を図れば図るほど、入院が長期化して、死ぬまでの期間が長くなる、そして、治療期間が長くなる、それが、耐え難くて激しい肉体的苦しみでない限り、医者は積極的に安楽死させられないし、患者も我慢しなさい、ということなのだろう。
 
 これでは、患者は、生きていけないだろう、少なくとも希望を持って生きられないだろう。
 なぜなら、「安楽死」の要件、それは、「死」の要件を示しているだけで、それは、生きる事、「生」の意味を示していないからである。
 
 いや、はっきり言って、人工呼吸器が、「生」を継続的にしていくための必要条件になった場合、
 意識がある場合は、それでも生きるべきか、悩むだろうし、意識が戻らない場合は、周りが、この「生」が意味あるかどうか悩むだろう。
 法律でも、人を殺すことは、殺人だし、自殺は自殺だし、自殺幇助は自殺幇助だけど、「生」の意味について、法律は触れていません。
 
 例えば、他人の心臓を移植すれば、生きられるという赤ちゃんがいて、その心臓をもらいにアメリカに行くという場合があるとして、想像するに、その心臓って、たまたま脳死になった赤ちゃんがいて、移植の適性があって、ということは、まずないだろうなと、思う。
 想像するに、闇ブローカーがいて、発展途上国で移植の適性が合う赤ちゃんを、人身売買で買って、という手順を経て、得た心臓なんじゃないかなと、思う。だから、何億もするような治療費がかかるんだろうと、、。
 まあ、そうかどうかはわからないけど、そもそも、他人の心臓をもらって生きる、そういう「生」に意味があるのかと疑問に思うわけです。
 
 してみると、延命治療の問題ってのは、「生」の意味の問題に、なっちゃうのかなと、思います。
 これが、「積極的安楽死」とか、「消極的安楽死」、「尊厳死」と、それぞれが、どういう場合に認められるか、考えるロジックで論じられています。
 
 これは、難しいんだろうけど、まず、「生」の定義について考えないと、いけないのかなと思います。
 いや、体感的にはですよ、意識がしっかりあって、ご飯が食べれて、体に痛いところがなくて、自分で出歩けて、楽しくて、っていう「生」の要素が、徐々になくなっていって、全部なくなっちゃうと、「死」な訳です。
 それと同時に、いや、大変高齢な方が、何十年も入院して、治療をして、意識がなくて、家族は介護をし続ける、そういう「生」が充実しているのかと、疑問に思う気持ちがあって、なるべくなら、そういうのは、避けたいなと、長生きして、ポックリ死ぬのがいいな、と思う気持ちもあると思うんです。
 
 そこを、医者の裁量でみてあげるのが、この隘路ととれる訳です。
 いや、この事件が、実際どうなのかわかりませんが、注目していきます。
  1. 2006/03/27 (月) 11:48
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