<< Windows7デモ | ◇ | 三瓶由布子 >>

2009年10月26日(月) ◇ 感動できる話 (考えたこと)

 「事実」は、感動できる話じゃないと思うのです。

 2次元アニメは、いくらきれいに動いても声優さんがしゃべっても、所詮は全て作り事100%なので、虚構上の感動できる要素を純粋に積み上げたモノと安心できるのです。どれだけ2次元上にきれいに感動できる要素を積み上げたとか、作画、声優、脚本、音楽、原作とか、それらの腕前だけを評価できて安心して感動できて楽しめるのです。

 2次元なら妄想エロ要素をいくら積み上げても、所詮は100%純粋な妄想なので、「画面には誰も映っていない」のです。つまり「絵」だけなので、3次元エロと違って画面の中には実在の「人間」がいるわけでなく、どういう思いで脱いだんだろうとか、親御さんはどう思っているんだろうとか、そういうリアル要素を全く考える必要がなくなります。

 「事実」っていうのは重くて辛いものと思います。大河ドラマとか、妻夫木君が戦国時代の武将をやってますが、あれは今風に言えば、都道府県別の軍事政権、強大な軍隊を持った暴力団が縄張り争いで殺し合いをする話と思います。
 忠実に映像化すれば、日曜8時にお茶の間で家族で見れるものにならないでしょう。戦国時代が舞台なのに、血で血を洗う大虐殺劇を描かないで、どこが「歴史」なのかと思うのです。
 「事実」とか、「3次元」という枠組みに縛られると、「お約束」しかできなくなって、「お約束」の繰り返しになる、それには辟易というか、ならば、一から虚構ですよって言う方が、縛りが少なくなるし、2次元アニメになれば、もっと縛りが少なくなるのです。

 してみると、2次元幼女のエロ動画を規制するような法律ができるとしたら、法律を作る人間が、2次元と3次元の区別がついていない「愚」を表明しているだけでしょう。「事実」は、人間はエロイ妄想をするものだし、妄想の産物の2次元エロに規制をかけるのは、「事実」では表現できない人間の本質表現に規制をかけるのと同じことで、「表現の自由」にもかかわる話です。

 「感動できるドキュメンタリー」は安心できなくて、「2次元アニメには安心して感動できる」のは、「感動」の本質は、「虚構の世界に溺れる」事だからじゃないかと思いました。「現実」の絵を見ながら、極度に純化された喜びの感情に溺れるよりも、2次元の絵・「虚構」を見ながら喜びの感情に溺れる方が素直だろうと思いました。

 例えば「密着介護芸能人夫婦愛」モノで、何十日間も密着して素材を撮って編集する。
 編集する事は、感動するのに不具合な要素をどんどん捨ててゆく事だし、沢山密着撮影すればする程、(そもそも感動シーンを撮るために撮影した要素の中からも)捨てる要素がどんどん増えてゆく訳です。
 撮ってない部分で何が行われているんだろうかとか、撮影にギャランティが発生してるからこういうリッチな介護ができるんだよなぁとか、介護している旦那の方は(見ている人も意識して=演技して)話しているんだろうなとか、旦那にも知られないように隠し撮りすれば「演技の要素が省ける」んだろうとか、そう思うと、これってシナリオが無いようでいて、意図している絵を撮ろうという演出で濾過された後の絵だし、旦那のセリフはアドリブで見ている人を意識しているもので、それらのマジックに騙されてるんだよなぁという後味が残るのです。
  1. 2009/10/26 (月) 14:14
  2. | トラックバック:0
  3. | コメント:0

コメント

コメントの投稿


(パスワードを入力することで、書き込みにトリップが表示され、なりすましを防ぐことができます。)
管理者にだけ表示を許可する



<< Windows7デモ | ホーム | 三瓶由布子 >>
ブログライブ

最近の記事

Calender RSS1.0

ブログライブ内記事検索

Category

Archives

Recent Comments

Recent Trackbacks

Links

ads